09新田義貞の首塚

009大磯宿 看板

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看板転記

新田義貞の首塚


 建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。
 義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。
 しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
 その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。
 なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。



kubizuka of Yoshisada Nitta


This is where the head of Yoshisada Nitta was buried. Yoshisada Nitta, who played an important role in the Restoration of Kenmu, was killed during the battle in 1338 and his head was exposed for public inspection. One of his retainer, Yasuto Utsunomiya (the ancestor of the Okubo family), recaptured the master's head and tried to take it back to their territory, but he became unable to go on anymore at this site due to illness. So he buried it here.

※看板の文字を転記しています。誤字脱字はご容赦ください

思ったこと

新田義貞について

2013.1訪問 
わたしが高校生だったころ、NHKの大河ドラマで「太平記」を放映していました。足利尊氏=真田広之、楠正成=武田鉄矢、足利尊氏の奥さん=沢口靖子 北畠顕家=後藤久美子 と 主要人物はすらすらと出てくるのだけど、新田義貞は出てこない。そこで、wikipedia で 調べてみたら 萩原健一→根津甚八(途中でかわったらしい。)でした。…記憶がない。
新田義貞のわたしの中のイメージは「稲村ケ崎」である。
そんな新田義貞なのだけど、新田義貞のwikipedia を 見ると 京都の滝口寺に首塚があると記されている。
諸説あります・・・の典型なんだろうな、と、思います。
実は・・・・・首塚 見つけられなかったんです。看板だけ。
絶対そばにあるはずなんですが。
Googleのマップを印刷したものしか持っていなくって、もちろんスマホもなく。
無念なのです。


参考MAP


広域地図


google mapより


※地図の位置は、手作業で行っているため、若干のずれがあります。訪問の際は正しい地図をご確認ください

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