看板転記
平塚宿の江戸見附
平塚宿の江戸見附 |
平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。
本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸川の出入り口にもあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1.5キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。
一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
平塚宿江戸見附は、長さ約3.6メートル、幅約1.5メートル、高さ約1.6メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。
平成13年(2001年)10月
平塚市
※看板の文字を転記しています。誤字脱字はご容赦ください。
平塚宿の江戸見附について
江戸見附と上方見附のペアは、史跡として看板をいくつも見てきました。ここ平塚の江戸見附は、『石垣』と『竹矢来』が復元されており、それを目にすることでき、また、明治時代の写真が掲示されることで、小学3年生のRonにも、ちょっとは「何か」がわかったように思います。
なかなかこういう史跡を残していくことは難しいこととは思いますが、街歩き隊にとってもは役にたちます。
感謝
明治14年頃の平塚宿の江戸見附 |
平塚宿の江戸見附 |
平塚宿の江戸見附 |
『石垣』と『竹矢来』が復元 |
参考MAP
広域地図
google mapより
※地図の位置は、手作業で行っているため、若干のずれがあります。訪問の際は正しい地図をご確認ください