看板転記
日坂宿の高札場
日坂宿の高札場
高札場幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、その掲げられた場所を高札場といいます。高札場は人々の注目を引きやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていました。高札の内容は日坂宿が藩領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き替えがありました。ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復原いたしました。高札場の大きさ「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の「御尋二付申上候」書付(天保十四年)によりました高札小史◎正徳元年(一七一一)日坂宿の高札場設けられる。このときの高札五枚(親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)は幕末まで続いた。◎慶応四年(明治元年・一八六八)太政官布告により従来の高札を撤去し新たに五枚の高札(五榜の掲示)を掲げた。◎明治六年(一八七三)高札が法令甲府の方式としては適さないとの見地から撤去された。
※看板の文字を転記しています。誤字脱字はご容赦ください。
思うこと
高札場について
江戸の識字率は世界的に見ても高かったとは聞いたことがありますが、それでもこの高札場をの掲示をきちんと読みこなし、理解できた江戸人はどれくらいいたんだろうなぁと思いを馳せます。