05保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来

005保土ケ谷宿 看板

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看板転記


保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来


ここ境木は武蔵相模の国境で江戸時代にはそのしるしが建てられていて境木の地名はそれからおきたといわれています
また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり名産の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑わったとも伝えられています。
境木の名を有名にしたものは地蔵で江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄附された燈籠が残っています。
なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります。即ちいつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち「俺は江戸の方へ行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告たので漁師達が江戸へ運ぶ途中此の境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところそれからは村が繁昌したということです
地蔵堂の鐘は明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれました。
平成元年十月四日
岩間町 見光寺
※看板の文字を転記しています。誤字脱字はご容赦ください。

境木-武蔵国と相模国の境-

境木地蔵の由来の説明文によると、江戸時代に武蔵国と相模国の国境のこの場所にしるしが建てられていたそうです。だから『境木』なのですね。
そのままじゃん!と突っ込みたくなりますが、地名はそういうものであるということが、歩いているとよくわかります。

現代のこの地にもとってもわかりやすく、どどーんと境木が建っていました。
石の地図の境目の上に、どどーんと境木があり、その境木には『ここより武蔵國保土ヶ谷宿』と『武蔵国境之木』『ここより相模国戸塚宿』とあります。

こういう昔の境をみると、ふと考えてしまいます。武蔵国はイメージとしては東京、相模国はイメージとしては神奈川。なぜ、ここで分けなかったんだろう?と。調べればきっと理由を探せると思うのだけど、それは保留にして、先を急ぐこととします。



息子が見ている写真の下の方に書いてある文字をよく見ると『横浜マイスター』により平成17年に制作されたもののようです。それを手がかりに探してみると、もっと詳しくわかりました!
横浜マイスターの石工さんと大工さんがコラボレーションで制作したものだそうです。

思ったこと

加山雄三さんが『若大将のゆうゆう散歩』で保土ヶ谷宿~戸塚宿を散歩した時に、このお寺のヤドリギの絵を描いていました。それまで加山雄三さんが絵を描くのも知らなかったから、とてもうまくてびっくりしたことを、この写真をみると思い出します。
先を急いでいたので、地蔵の写真はありません・・・・。 

参考MAP


※地図の位置は、手作業で行っているため、若干のずれがあります。訪問の際は正しい地図をご確認ください


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